私は、これまで、この政策に(どちらかといえば)賛成でしたが、最近、この問題は単純ではないと思い始めました。
それはフードバンクでの経験が強く影響しています。つまり、ベーシック・インカムに対する私の疑問は、世間でも議論されているような経済合理性に由来する反論ではありません。
例えば、月に15万円、誰にでも給付する政策が実現されたとしましょう。この政策の目的は、国民全てに最低限の生活を保証することです。これだけの金額があれば、とりあえずは「食える」はずだと。
しかし、この政策が見逃しているのは「そのお金を、どのように、何に使うのか?」という問題です。
ここで私は、パチンコや競馬ですってしまう、というようなケースを言いたいわけではありません。人間の悪意や怠惰を問題にしたいわけではないのです。この点には注意してください。
そうではなくて、「これだけのお金があれば、とりあえずは食えるはずだ」と考えている政策担当者には、例えば、次のような前提があるはずです。
全く収入がないとしても、このお金を日割りにして(あるいは期間ごとにまとめて)食料を購入すれば一ヶ月を暮らせるはずだ。
この投稿を読んでいるような人にとっては、上記は余りにも当たり前のことでしょう。わざわざ「計画」や「計算」というような言葉で表現するのもバカバカしいに違いありません。
しかし、現実は、必ずしもそうではないのです。
悪意や怠惰ではなく、ましてや自暴自棄ではなく、上記のようは発想をして実行することができない人々が存在します。それにはいろいろな理由や原因がありますが、ここでは詳細は問いません。そういった人々が、最悪の状況に陥った時、フードバンクを訪れることになるわけです。
あるいは、このような人々のベーシック・インカムを狙って、貧困ビジネスの連中が活発に動き出すかもしれません。彼らは、果たして、この種の連中から身を(お金を)守ることができるでしょうか?
1つの意見は「ベーシック・インカムを給付した後は、それを何に使おうが自己責任だ」というものでしょう。
しかし、この意見には「論理的に」おかしいところがあります。
そもそも、ベーシック・インカムは「全ての人に最低限の生活保障をするためには?」という問題に対する回答として提示されたはずです。しかし、上記のようなケースの場合、少なくともベーシック・インカムを給付するだけでは最低限の生活保証が維持できない可能性があります。つまり、ベーシック・インカムでは(少なくとも一部のケースに関しては)「回答にならない」ということになります。
あるいは、ある種の人々に対しては「お金の使い方に介入するべきだ」という意見もあるかもしれません。つまり「あなたは自由にお金を使ってはならない」というわけです。しかし、現代で、こんなことが可能でしょうか?
以上は、ベーシック・インカムという考え方に対して、全面的に反対するものではなく、それを望んでいるわけでもありません。むしろ、この考え方に対するシンパシーは、私には依然としてあります。
ただ、「お金を配給する」だけでは、この困難な問題は片付かないこと、それを最近実感しているということに過ぎません。
では、どうすればよいのか?
私にはわかりません。