帰らない子どもがいます。
子ども食堂に遊びに来て、ごはんを食べて、いっぱい遊んで、だけど、閉店間際になっても帰らない子どもがいます。
帰りたくないからです。
理由は、さまざまです。
子ども食堂の現実と苦悩
前回は、子ども食堂の実像を「楕円としての子ども食堂」という視点でご紹介しました。
楕円には二つの焦点があり、一つの焦点が「困窮した子どもたちの支援」、もう一つの焦点が「地域の子どもたちの見守り拠点」、この二つの焦点で構成された楕円全体が、いわゆる「子ども食堂」なのです。
この点で、マスコミなどが伝える子ども食堂のイメージは、実は一面的なものに過ぎず、困窮した子どもたち「だけ」が来る場所ではないこと、より強く言えば、困窮した子どもたちだけが来る場所としての子ども食堂は、実際には成り立たないこと、これを、できるだけ筋道立てて、ご説明しました。(詳細は、恐縮ですが、前号をご参照頂ければ幸いです)
もちろん、問題を抱えた子どもと貧困は、相当に強い関係があります。
しかし、ご想像できるかと思いますが、たとえ豊かな家庭であっても、問題を抱えた子どもたちはいます。
子どもの問題を、貧困という切り口「だけ」から見るのは、この点で慎重であるべきだと私たちは考えています。
冒頭で紹介した「帰らない子ども」のケースも、豊かとまでは言えないまでも、食べるものに困るというほどの状態ではありません。
しかし、子どもには帰りたくない理由がありました。
そして、ここが肝心な点ですが、子どもが問題を抱えているということは、要するに、親が問題を抱えているということなのです。
実際、その子どもの親は、子ども食堂に強い苦情を言い立てました。
「もう二度と、子ども食堂には行かせない。もしも親に黙って行くようなことがあったら、入り口で追い返してくれ」と。
子ども食堂は、苦慮しました。
やって来た子どもを、入り口で追い返すことなど、どうしてできるでしょうか?
かといって、そのまま受け入れたら、親が怒鳴り込んできます。
子ども食堂は、一体、どうしたらよいのでしょうか?
そして、その子どもは、やって来ました。
これは、八王子の子ども食堂で実際に生じている出来事です。
子ども食堂の孤立?
私たちは、子ども食堂に対して、ある意味では無責任な漠然とした「願い」を持っています。
食堂に関わる大人たちが、問題のある子どもたちを優しく見守ってくれれば、と。
しかし、それが現実化した時、何が生じるのでしょうか?
実際に、問題がある子どもが見出された時、子ども食堂では一体何が生じるのでしょうか?
その一例を、上でご紹介しましたが、ここで生じているのは、一言で言えば「衝突」です。
子どもとの衝突、そして、親との衝突です。
誰が?
熱意にあふれてはいても、普通の民間人に過ぎない、子ども食堂の運営者が、です。
しかも、これは「一例」でしたが、一つの食堂について、果たして一つで済むのでしょうか?
私たちは、この点を、みなさまに十二分にご理解頂きたいと思っています。
つまり、子ども食堂に期待されている役割、それが実現した時、実は、子ども食堂が危機に陥る可能性があることを。
子どもたちを支える役割を担っている子ども食堂、しかし、その役割を実際に発揮した途端に、今度は、子ども食堂自身が支えられる必要があるのです。
しかし、どうやって、子ども食堂を支えればよいのでしょうか?
子ども食堂だけが、頑張れば、いいのでしょうか?
ここに、簡単な解は存在しません。
私たちは現在、八王子市の子ども家庭支援センターとの連携を模索しています。彼らとの連携が重要な支えになる(はずだ)からです。
しかし、ここが決定的に重要な点ですが、子ども食堂は行政の下請け機関ではありません。子ども食堂とは、あくまでも、地域の熱意ある有志たちの自発的な活動なのです。
従って、具体的に、どのような連携の在り方が適切であり、有効なのか、それは、これから様々な試行錯誤を経て、徐々に形成されてゆくものだと、私たちは覚悟しています。
とはいえ、一つだけ、はっきりしていることがあります。
地域の子ども食堂にとって、何よりも重要な支えは、地域の町会であったり、学校であったり、学童であったり、顔の見える地域の様々な方々である、ということです。
子ども食堂とは、地域の新しい、しかも、間違いなく貴重な拠点なのですから。