「フードバンクには、どんな人が来るの?」
私たちは、しばしば、このような質問を受けます。
が、これに対しては、なかなか一言では答えられません。もちろん彼らは困窮しているから来るのですが、その実態は多様であり、実に様々な人たちが来るからです。
男性も女性も、性的少数者の方も来ます。 若い人も中年の人も高齢の方も、健常者も障害者も、母子家庭の親子も、高校生も来ますし、ちょっと恐いお兄さんまで、本当に様々な人たちが来ます。
私たちは、こういった人たち全てを受け容れます。誰一人、断ることはありません。
でも、彼らの千差万別な在り方の向こう側に、一つだけ共通していることがあります。彼らは、例外なく、社会的に孤立しているという点です。
これは抽象論ではありません。
そもそも、孤立していなければ、つまり頼れる人がいれば、私たちのところになど来る必要はないからです。頼れる人がいれば、これほどの困窮状態には陥らないからです。
誰にだって、生きていれば、いろんな事件が起こります。 事故や病気、失職や事業の失敗、そういった不幸な事態が生じて、自分一人ではどうにもならない時、私たちは、家族や友人、その他のいろんな人に頼ります。SOSを発信することができる、その相手が、私たちにはいるのです。
ところが、この「頼る」ということが難しい人たちがいます。
これが、どのような人たちなのか。
それを想像するのは、普通の暮らしをしている人たちにとっては、少しばかり難しいかもしれません。
私たちと同様に「SOSを発信できる相手がいる、だけど、それができない」と、そういう訳ではないのです。
それまでの人生で、困難な生育歴や知的・精神的な障害、あるいは長期の病気やひきこもりなど様々な事情のために、頼れる相手にほとんど恵まれて来なかった、そういった人々がいるのです。
彼らは、否応なく、孤立して生きてきました。それゆえに、深刻で様々なダメージを蓄積しながら生きてこざるを得なかった、そういった人生を背負っています。
彼らの人生は、私のように平凡な生活を送ってきたような者にとっては、想像を絶するような孤独であっただろうと思います。
更に、SOSを発信できる相手が、かつては「いた」、だけど、今はいなくなってしまった、そういった人たちがいます。彼らは、頼れる相手を、いわば「使い切ってしまった」のです。残されたのは、孤立だけです。
ここで「使い切ってしまった」のには、様々な事情があったと思います。不幸な偶然もあれば、自己責任を問われざるを得ないような事情もあったでしょう。それでも、結果として、彼らに残されたのは孤立だけです。
フードバンクとは、そういった人たちの「最後の場所」でもあるのです。
「だから」と、私たちは確信しています。 「私たちが本当にやるべきことは、大切な食品を提供することを通じて、それ以上に、彼らの社会的な関係を再構築する窓口になることだ」と。
つまり、フードバンクとしての食品の提供は、貧困に対して決定的に重要ですが、それでも、いわば「手段」に過ぎず、本当の「目的」は、社会的に孤立してしまった彼らの「人と人との間の関係」を復活させること、あるいは新たに創出することにあります。
これこそが、私たちの本当の目的であり、とても困難な(実に困難な)目標なのです。
(*)この文章は、立教女学院の定期広報誌からの依頼に基づいて寄稿した短文である。
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